今日で「あの日」からちょうど3か月。どうしようかとずっと考えていたのですが、2度と同じ目に会わぬよう、忘備録の意味もかねて書いておこうと思います。
文中にはちょっとショッキングな画像や内容も含みますので、苦手な人は見ないでくださいね。
それは2022年5月23日、コロナの第6波も落ち着きを見せ始め久しぶりに制限がなくなった中、CB250Rに乗るシルバーライダーさんと出かけた4泊5日の信州~能登半島ツーリングの帰り道で起こりました。
まさか、これがV7の最後の雄姿になるとは・・・。
その日、上越の宿を出発した我々は、関越道の石打SAで昼食を済ませ、一路自宅に向けて高速を順調に走っていました。
250cc単気筒と一緒に走っていましたので、速度は90キロほど、決してスピードを出し過ぎていたわけではありません。
月夜野ICを過ぎると道は緩やかな下り坂。極々緩い左カーブに差し掛かったころ、突然モトグッツィのハンドルが左右に大きくぶれ出しました。
必死に抑え込むも抑えきれず、左に転倒しそうになったところまでは記憶があります。
次の記憶は救急車の中・・・。
記憶では左に転倒しそうになったのに、何故か実際は右側に転びました。
おそらく左に大きくスライドしたところを必死に立て直そうとしてハイサイド状態になり、右側に吹っ飛ばされたものと思われます。
下の写真は事故直後の状況。私にはこの時の記憶が全くないのですが、地面にたたきつけられて転がった後、数分間動かなかったものの、突如むくりと起き上がり、自分で路肩に避難したそうです。バイクは更に遥か前方。
哀れモトグッツィV7RACERはこんな状態。
左カーブなのに、追い越し車線側ではなく、路肩側に転がったのは運が良かったとしか思えません。もし追い越し車線側に転がっていれば、後続車にひかれてしまったかもしれないし、中央のガードレールにぶつかれば、おそらく命はなかったでしょう。
驚いたのは後ろを走っていたシルバーライダーさんだと思います。
何せ、ほぼ直線の何もないところで先行する私のバイクが暴れ出し、何かにぶつかったわけでもないのに、宙に舞っちゃったんですから。
後日の警察による現場検証での事故状況はこんな感じ。
路面に残された転倒傷の28.5m手前に3つの連続したギャップ(それも段々大きくなる)があり、そこでハンドルを取られて車体が制御不能になったのだろうとのこと。そして空中に放り出された私の体はなんと60m以上も転がり、バイクは更に30m先まで滑って行ったようです。
ただ、このギャップ、現場検証時に私も確認しましたが、それほど深いものではなく、日本の道路ならどこにでもありそうなくぼみで、正直これが本当の原因とは思えないんですよねぇ。警察としては事故の原因は究明し調書を作らなければなければならないということで、それでよしとしてしまいましたが。
ちなみにこのギャップは私の事故の翌日、早々にNEXCOが補修しています。
一方、バイクの方は後日壊れたバイクをバイク屋さんまで引き上げ、チェックしてもらいましたが、ステムもエンジンも駆動系も特に異常無し。タイヤは新品、車検も通したばかりです。
そんなわけで3か月たった今でも、本当の原因は少々謎のままなのです。
ところで、警察との現場検証の際、先行して車線規制にでたパトカーがパンクするという珍事がありました。この場所、なんか呪われてるとしか思えない(^^;)。
さて、事故発生後、私は救急車で利根中央病院に搬送されました。そこでの診断結果は、
・外傷性くも膜下出血
・右鎖骨骨折
・多発性肋骨骨折(7本、17カ所)
・肺挫傷による血気胸
・肩、肘、膝の擦過傷および右手親指裂傷
特に脳と肺は運び込まれた病院では適切な処置が難しいと、その日のうちに再び救急車で前橋の群馬大学病院へ転送されました。
この移動時位から意識がはっきりしてきていて、救急車の振動が痛かったのなんのって。救急車が道路の継ぎ目やギャップを越えるたびに悶絶!
関越道の沼田ー前橋間が東京ー青森より遠く感じましたよ。
大学病院では再びCTやレントゲン撮影の後、集中治療室(ICU)に運び込まれ、体中に色んな器具を付けられ2日間を過ごしました。
3日後、再度CT撮影の結果、クモ膜下出血はきれいになっているということで一般病棟へ。麻痺とか出ちゃうんじゃないかと一番心配していた部分が大丈夫だったのでまずは一安心。
とはいえ、全身20カ所近い骨折の苦痛は半端じゃありません。
とにかく一度仰向けに寝たら、自分で起き上がることはもちろん、寝返りを打つことすらできません。なんせこんな状態ですから。
脊髄すぐ近くの肋骨がバキバキに折れて互い違いになっちゃってます。よく脊髄損傷にならなかったものだと思います。
折れた肋骨の周辺は、外から見てもこんな感じ。こんなでっかい内出血、見たことないですよ。
とにかく、あまりの痛みで食事も全くのどを通らず(この病院の食事があまりにもまずかったのもある)、何とか口にできるウイダーゼリー1パックのみの日が何日も続いて、事故直後64キロあった体重は10日間で10kgも減ってしまいました。
大学病院では鎖骨も肋骨も肺も自然治癒に任せるということで特に治療という治療はしなかったのですが、5日目くらいから時々血を吐くようになっていました。
血中酸素濃度も90%くらいまで落ちてきて、本当に自然治癒するものなのか?とちょっと、というかかなり不安な日々でした。
その後、自宅からあまりにも遠いということで、自宅近くの城西病院に転院したのですが、これが正解だったかもしれません。
転院直後に撮った画像がこれ。
右肺、真っ白です。内部の出血が肺にたまり、右肺がほとんど機能していない状況。自然治癒では直せる状況ではありません。急遽、わき腹からドレンチューブを挿入してたまった血を抜くことになりました。
このドレンを差し込む瞬間の気持ち悪さったら無いです。皮膚は局部麻酔で何も感じないのですが、肺にチューブがズブズブと入っていく感覚と言ったらもう・・・。きっと背後からナイフで刺されたらあんな感じなのだろうなと思った次第。
で、抜いた血液。何と10分ほどで2リットルも出てきました。私の肺活量は約4千ccですから右肺はほぼ血液で満杯の状態。先生の話ではこのまま放置していたら、右肺の機能は失われていたかもしれないとのこと。
その後約2週間、肺にドレンをつないで出てくる血液を抜き取り(合計は4リットル近くにもなりました)、右肺はつぶれることもなくほぼ従来通りの肺活量と機能を回復することができました。
肺機能を失わず済んだのは良かったのですが、大学病院では電動ベットを使っていたのに転院した病院のベットは手動式。これがつらかった。自分では背もたれを起こせないので、トイレに行くときや食事の時はいちいち看護師さんにベットを起こしてもらう必要があります。勢い遠慮してしまうので寝たきり状態になり、臀部がうっ血して床ずれのような状態に。更に動かないためお尻の筋肉がどんどん減っていくので腰骨がベットに当たっちゃう感じで、これが本当につらかった。電動ベットなら自分で起き上がれるくらいまでにはなっていたので、とにかくベットを変えてくれとお願いし続け、約1週間後飽きの出来た電動ベットに替えてもらえた時は涙が出るくらいうれしかった。
肺のチューブが外れると、先生は寝てばかりいないで動け!というんですが、そうそう動けるものではありません。右手は鎖骨がぶらぶらなので、思うように位置決めが出来ず、歯を磨こうとすると歯ブラシが首にくっついちゃうとか、3週間寝たきりで足腰の筋力が自分でもびっくりするくらい落ちていて、トイレに座ったら立ち上がれないとかもう大変でした。
そして鎖骨。大学病院搬送時はきれいに真っ二つに折れていて、これなら自然治癒でくっつくだろうということでしたが、転院時の搬送時にズレてしまったのか、転院後のCTでは前後に大きくずれてしまっていました。
外から見ても、見るたびにズレ動いているのがわかるくらい。
で、結局手術をして金属プレートで固定することに。
肺の方がもう大丈夫となった6月16日に手術。プレートが外せるのは6か月~1年後だそうです。長いなぁ。
そしてそれから約3週間後、7月5日にようやく退院できました。
さて、今回これほど大怪我をしながらも奇跡的に命が助かったのには理由があります。
1.いつもはジェットヘルな私が、直前にフルフェイスのヘルメットを購入して装着
していた。
当日来ていた衣類の損傷状態から、路面にはうつぶせの状態で胸からたたきつ
けられたらしく、もしジェットヘルだったら顔面ぐしゃぐしゃだったかも。
2.いつもは布製のジャケットな私が、久しぶりの長距離だからと厚手の革ジャンを
着用していた。60mも転がって大した擦過傷が無かったのは革ジャンのおかげ。
3.直前まで雨が降っていたためカッパを着ており、これもプロテクターの一つに
なった。
この3点、どれか一つでも欠けていたら、今日このブログを書くことすらできなかったかもしれないと思うのです。
もし、またバイクに乗れるようになったら、とにかくプロテクターの類はきちんとしたものをしっかり身に着けたいと思います。
今回学んだこと。
事故は突然何の前触れもなく起こるものだと痛感させられました。
制限速度100キロの高速道路での時速90キロは「遅い」かもしれませんが、ひとたび事故となれば、命に係わる速度であるということを思い知りました。
200キロを超える鉄の塊であるオートバイは制御不能の状態になったら人の腕力ではどうにもならないんですよね。
最後に、当日奔走してくれたシルバーライダーさん、急遽群馬まで駆けつけてくれたハヤブサ君、危険を承知で車を止めて救急車を呼んでくださった通りがかりのワゴン車の方、警察、消防の方々、病院の先生、看護師の皆さん、本当にありがとうございました。